リーグ戦年度別記録


1946年(昭和21年)

関東・関西で待望のリーグ戦が再開された。
翌22年の4月13日に「毎日甲子園ボウル」がスタート、観客は700名。
駐留米軍の後援で旧制中学(現高校)に対するタッチフットボールの普及が開始。 甲子園ボウルで関西中学大会決勝試合が実施され、豊中中が池田中を破り 初代王座についた。

第一回国民体育大会にオープン競技として参加し、全関東対全関西の対抗戦を西宮競技場で開催した。

《 関東 》 〜 オープン戦 〜
慶 応 立 教 早稲田 法 政 明 治 日 大
慶 応 18 0 62 0 2 0
立 教 32 0 1 0
早稲田 0 18 46 0 1 1
法 政 0 32 0 1
明 治 0 46 0 1
日 大 0 62 0 1

《 関西 》
同志社 関 学 関 大
1 同志社 2 2 13 12 1 0 1
2 関 学 2 2 6 0 1 0 1
3 関 大 12 13 0 6 0 2

優勝決定戦
同志社0 − 0関 学
同志社7 − 2関 学


1947年(昭和22年)

翌23年の1月17日に 東西選抜対抗「ライスボウル」がスタートした。 観客は6,000名。
第二回国民体育大会で正式種目となったが、諸事情により東軍が棄権。 以後除外されてしまう。
【リーグ戦初参加】[関西]京大

《 関東 》
明 治 慶 応 日 大 早稲田 法 政 立 教
1 明 治 6 6 40 21 33 6 26 13 27 12 4 0 1
2 慶 応 6 6 20 12 12 13 19 0 20 0 3 1 1
3 日 大 21 40 12 20 33 0 12 7 21 0 3 2
4 早稲田 6 33 13 12 0 33 13 12 7 13 2 3
5 法 政 13 26 0 19 7 12 12 13 13 6 1 4
5 立 教 12 27 0 20 0 21 13 7 6 13 1 4

《 関西 》
関 大 同志社 関 学 京 大
1 関 大 21 0 20 0 13 12 3 0
2 同志社 0 21 30 18 7 27 1 2
2 関 学 0 20 18 30 38 0 1 2
2 京 大 12 13 27 7 0 38 1 2


1948年(昭和23年)

法政のQB神谷選手が、リーグ最終戦でタックルを受けた際に脳神経を痛め 翌日死亡。 日本フットボール界で初の犠牲者を出してしまった。

関東でも6校(麻布、慶応、九段、都立六高、十高、農高)による高校タッチフットボール大会が開催され、優勝した麻布高が甲子園ボウルで関西優勝の池田高と対戦、池田高が初の高校王座についた。
初の実業団チームとなる アンドリウス商会が関東に誕生。

《 関東 》
慶 応 明 治 早稲田 立 教 日 大 法 政
1 慶 応 13 6 55 0 13 6 13 6 13 0 5 0
2 明 治 6 13 38 7 14 0 13 6 26 21 4 1
3 早稲田 0 55 7 38 13 6 19 14 52 12 3 2
4 立 教 6 13 0 14 6 13 20 6 20 0 2 3
5 日 大 6 13 6 13 14 19 6 20 18 7 1 4
6 法 政 0 13 21 26 12 52 0 20 7 18 0 5

《 関西 》
関 大 関 学 同志社 京 大
1 関 大 6 6 25 16 12 6 2 0 1
1 関 学 6 6 13 9 25 0 2 0 1
3 同志社 16 25 9 13 26 0 1 2
4 京 大 6 12 0 25 0 26 0 3

再試合
関 大25− 6関 学


1949年(昭和24年)

《 関東 》
慶 応 早稲田 立 教 明 治 法 政 日 大
1 慶 応 14 6 6 0 19 0 0 14 25 0 4 1
2 早稲田 6 14 7 0 33 6 25 0 37 0 4 1
3 立 教 0 6 0 7 7 6 27 0 13 0 3 2
4 明 治 0 19 6 33 6 7 20 0 39 0 2 3
5 法 政 14 0 0 25 0 27 0 20 14 14 1 3 1
6 日 大 0 25 0 37 0 13 0 39 14 14 0 4 1

《 関西 》
関 学 京 大 関 大 同志社
1 関 学 19 13 26 0 14 7 3 0
2 京 大 13 19 31 12 18 0 2 1
3 関 大 0 26 12 31 32 0 1 2
4 同志社 7 14 0 18 0 32 0 3


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更新日: 97/ 7/ 9

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