リーグ戦年度別記録


1940年(昭和15年)

関西2番目の大学チーム、同志社大が誕生した。 戦時色が濃くなり、競技名が「米式蹴球」から「鎧球」に変更された。
【リーグ戦初参加】[関東]日大

慶 応 早稲田 明 治 法 政 日 大 立 教
1 慶 応 13 6 6 0 31 7 44 0 26 6 5 0
2 早稲田 6 13 0 0 34 0 62 6 56 0 3 1 1
3 明 治 0 6 0 0 36 0 20 3 6 0 3 1 1
4 法 政 7 31 0 34 0 36 13 13 12 7 1 3 1
5 日 大 0 44 6 62 3 20 13 13 7 7 0 3 2
6 立 教 6 26 0 56 0 6 7 12 7 7 0 4 1


1941年(昭和16年)

関西3番目の大学チームとして関西学院大が加盟、関西でもリーグ戦が開始された。
太平洋戦争に突入し、ポール・ラッシュ理事長が敵国人収容所に収容され、徴兵など戦争による影響が深刻となっていく。

《 関東 》
明 治 法 政 日 大 慶 応 早稲田 立 教
1 明 治 24 0 32 0 38 6 3 0
2 法 政 6 0 0 19 26 0 2 1
3 日 大 0 6 21 12 7 0 2 1
4 慶 応 0 24 12 21 7 0 7 0 2 2
5 早稲田 0 32 19 0 0 7 58 7 2 2
6 立 教 6 38 0 26 0 7 0 7 7 58 0 5

《 関西 》
関 大 関 学 同志社 関西OB
1 関 大 26 6 22 15 38 0 3 0
2 関 学 6 26 20 13 12 8 2 1
3 同志社 15 22 13 20 25 0 1 2
4 関西OB 0 38 8 12 0 25 0 3


1942年(昭和17年) 春季

太平洋戦争の激化に伴い、17年秋と18年春の2回に分けて徴兵の為の繰り上げ卒業が実施されることとなった。
大学スポーツは文部省の指導により、春季・秋季の2シーズン開催となった。

《 関東 》
明 治 慶 応 早稲田 立 教 法 政 日 大
1 明 治 25 0 19 6 13 6 3 0
2 慶 応 0 25 22 0 6 0 2 1
3 早稲田 6 19 37 6 8 7 2 1
4 立 教 6 37 18 9 0 0 1 1 1
5 法 政 0 22 7 8 9 18 25 0 1 3
6 日 大 6 13 0 6 0 0 0 25 0 3 1

《 関西 》
関 大 関 学 同志社
1 関 大 36 7 2 0
2 関 学 7 36 38 6 1 1
3 同志社 6 38 0 2


1942年(昭和17年) 秋季

関東のスコア等は不明だが、優勝は明治。

《 関西 》
関 大 関 学 同志社
1 関 大 36 7 2 0
2 関 学 7 36 38 6 1 1
3 同志社 6 38 0 2


1943年(昭和18年)

2月、ポール・ラッシュ理事長が日米抑留者交換船で帰米した。
5月23日に協会は、(1)戦況好転までフットボールを一時休止する、(2)海軍闘球(海軍航空隊創案のラグビー、鎧球、蹴球を混合させた集団競技)に転向する ことを決定した。
7月に軍部の命令によって各大学運動部は解散させられ、全ての競技が活動を停止した。


1944年(昭和19年)

活動中断中。


1945年(昭和20年)

敗戦後の9月下旬に総司令部の陸軍中佐として再来日したポール・ラッシュ氏を中心に、復活に向けた活動が開始された。


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更新日: 97/ 7/ 6

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